行楽弁当、駅弁

行楽弁当と茶屋

 

安土桃山時代あたりから社寺への参詣は、お弁当持参の「物見遊山」「名所見物」の傾向が色濃くなっでいきました。

 

イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲス(1561〜1633年)は『日本教会史』のなかで京の人々を、


都の大衆、住民はたいへん温和な性格で、甚だ礼儀正しく、極めて接待好きである。
また、たいへん上手に衣類を着こなし、遊び好きで、絶えず休養や、娯楽や、慰安に大いに専心する。たとえば、野原へ行って酒宴を開き、花や庭園を見で楽しむ。

 

彼らは信仰の篤い人々で、寺院をよく巡拝し、また平常から男女は頻繁に祈願を込め、説教を聞きに寺院に出かけるので、その有様は聖年を思わせるものがある。

 

と評し、洛中洛外の名所に出掛け、季節の花や本々を愛で、酒宴を開き、詩歌管弦の遊びを楽しんだこと、そして、寺社を巡拝することが遊楽であったことがうかがえます。

 

たとえば、京の紅葉の名所高雄を描いた『高雄観楓図』という屏風があります。

 

屏風の背景は紅葉の神護寺と雪の愛宕社への参詣道、前面には男女別々に楓を楽しむ様子が描かれています。

 

神護寺参詣後、紅葉狩を楽しんだようで、彼らの周囲には三段重の重箱や朱漆塗りの指樽(箱形の酒樽)、餅のようなもの、真っ赤に然した柿が入った丸い器など、かなり豪華な食べ物を持参していたようです。

 

また、茶の湯の普及によって15世紀はじめから、社寺の門前や行楽地において、「七十一番職人歌合」に見られるように、茶を点てて売り歩く「一服一銭」という商売が確立していました。

 

「煎じ物売」と同じように、天秤棒の前後に茶碗や釜、風炉を相って移動し、茶を所望する客に茶一碗を銭一文で供するもので、野外での喫茶の習慣の広まりを感じさせてくれます。

 

その後、店を持たない「一服一銭」の商人は団子と茶だけを向うような固定の茶屋(茶店)を開店し、歌川広重の「東海道五十三次」に描かれるほどになりました。

 

茶屋の名を留める地名として有名なものに、
・東京都世田谷区の三軒茶屋
・大阪市丙成区の天下茶屋があります。

 

前者は江戸中期以降、大ブームとなった社寺参詣で大山道と登戸道の分岐点付近に、信楽・角屋・田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来して命名されたといいます。

 

後者は、天神の森とと呼ばれたこの地に千利休の師・武野紹鴎(1502‐1555)が茶屋を開いたのが始まりで、16世紀後期には、住吉神社を参詣した天下人・豊臣秀吉が芽木家が営んでいた茶屋に立ち寄りました。

 

この茶屋の清泉を汲んで、利休に茶を点てさせたところ、ことのほか美味であり、秀吉を感嘆させたのでした。

 

天下人をも唸らせたと言うことから天下茶屋と名付けられたと伝えられています。

幕の内弁当と松花堂弁当

 

江戸庶民の娯楽といえば、痛快に時勢を揶揄した歌舞伎芝居を見物することでした。

 

長時間にわたる観劇には、旅行や行楽にも携帯したお弁当弁が必要となり、
芝居の幕の内(幕間)に食べたのが幕の内弁当の始まりです。

 

江戸時代後期には料理屋が発達し、芝居茶屋が芝居の見物客をもてなすようになり、幕の内介当も提供するようになりました。

 

また、相撲見物には相撲茶屋が、同様の弁当を供し、今日までこの習慣が伝えられています。

 

ただし、当時は使い捨ての経木(きょうぎ)「檜や杉の薄板のことで、経文を写したことからこの名がある)の折詰め弁当ではなく、重箱が用いられていたようです。

 

幕の内弁当と類似したものに「松花堂弁当」がありますが、京祁・石清水八幡宮の社僧で、茶人でもあった松花堂昭乗(1584〜1639年)に因むものです。

 

昭乗は農民が種入れとして使っていた十字に区切った正方形の箱を、煙草盆や絵の具箱として用いていました。

 

この箱が弁当箱に変身したのは、昭和8年[1933年頃)、有名料亭「吉兆」の創始者・湯水貞一が茶懐石の弁当として用いたのが始まりで、毎日新聞が「吉兆前菜」として掲載し、一躍、有名になったのです。

 

さて、幕の内弁当にはいくつかの決まり事があります。

 

まず、ご飯は黒胡麻を振りかけた俵形のおにぎりを並べ、梅干をのせていることです。

 

ちなみに昭和期にはご飯と梅干だけの「日の丸弁当」があり、梅干しはお弁当とは切っても切れない存在でした。

 

梅干は赤いものと決めつけているようですが、実は梅干が紫蘇で赤く着色されるようになったのは江戸時代になってからといわれています。

 

しかしながら、梅干の効用は戦国時代には大いに注月され、保存食というばかりでなく、食中毒や感染症の予防や、脱水症状の予防のためにも活用されていました。

 

今も、梅干の効用は受け継がれ、このように幕の内弁当の必須アイテムになっているのです。

 

つぎにおかずは、幕の内弁当の三種の神器と祢される、焼き魚・卵焼き・蒲鉾のほか、揚げ物・煮物・香の物などがありますが、食べやすい大きさで少しずつ詰め合わせるのが一般的です。

 

卵焼きと蒲鉾は、すでに江戸時代の幕の内弁当にも詰め合わされていました。

駅弁あれこれ

 

ぐっと時代が下がって明治維新以後、鉄道が各地に敷かれていき、それにつれてお弁当も進化を遂げます。

 

鉄道の高速化にともなって、今や駅弁は駅舎内の売店や列車内で販売されていますが、それ以前は停車時間を利用してホームで売り子が「弁当、弁当」の掛け声で売り歩く、立ち売り形式でした。

 

乗客は列車の窓越しに購入するという、いまでは懐かしい風景が展開していたのです。

 

駅弁のルーツについては諸説あるようですが、明治23年(1890年)7月16日、宇都宮駅で販売された、
おにぎり2個と沢庵を竹の皮で包んだものであったといわれています。

 

このおにぎりの駅弁から5年後の明治23年(1890年)、現在のような折詰のものが登場しました。

 

それは兵庫県の姫路駅で販売された幕の内風弁当で、2段重ねの下段には黒胡麻をふったご飯、上段のおかずは鯛の塩焼き・伊達巻き・焼き蒲鉾・だし巻き卵・大豆昆布の煮付け・栗きんとん・牛旁や百合根・ふきの煮付けのほか、香の物として奈良漬と梅干しが添えられていました。

 

幕の内弁当の三種の神器は、ちゃんと踏襲されています。

 

その後、全国各地で特色ある駅弁が、つぎつぎと誕生しました。

 

北海道JR森駅の「いかめし」をはじめ、富山駅の「ますのすし」、吉野口駅「柿の葉寿司」、新宮駅「めはり寿司」のように郷土料理に端を発するものなどがあります。

 

また当地の名産品を用いたもの、さらに高崎駅「だるま介当」、横川駅・長野駅の「峠の釜めし」のように特徴ある容器を使用したものに大別できます。

お弁当に割り箸

行楽弁当、駅弁

 

お弁当といえば割箸が添えられていますが、その誕生は江戸時代です。

 

『守貞漫稿』によりますと「引裂箸」と称していたようで、「鰻飯」つまり「鰻丼」には必ず引裂箸が添えられていました。
さらに、

文政以後、京都・大阪・江戸で用いられ始め、杉の角箸の半ばが割ってあり、食べるときに裂分けて用いる。
それは再利用していないこと、清浄であることの証明になる。

 

と衛生的であることを強調し、「鰻飯」のように庶民が利用できる飲食店で用いられていたとも記されています。

 

割箸は江戸時代以降、建築材や酒樽用材の杉の廃材から作られていました。

 

杉は柾目が通った美しい木肌であることに加えて、さわやかな香りがあることから最適の素材でした。

 

その昔、千利休が茶事に際して一期一会の気持ちを込めて、吉野杉の赤身を用いて一本一本、削りだしたといわれる、「利休箸」があります。

 

長さは24〜26センチで、中火部分がやや太く、両端が細くなっているのが特徴で、すべて丁寧に面取りした両口箸です。

 

この箸は今日でも吉野杉で製したものが最高級品とされ、主に懐石料理などで使用されています。

 

このほか、頭部の一部を剖めに削いだ「天削箸」(18〜24センチ)、割れ目に中溝がある元禄箸(21センチ以下}、箸の角を丸くとった小判箸(21センチ以下)などがありますが、面取りを施さないなど最も加工度の少ない六寸(18センチ程度)の割り箸があります。

 

この箸の長さが「丁度六寸」ということから「丁六箸」と名付けられたそうで、もっとも安価で、利用度の高いものです。



 

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