ごはんのこと

ごはんの話

 

和食の基本は白いご飯ですが、いつごろから食べられていたのでしょう。

 

神代の時代から日本は、「豊葦原瑞穂国」と瑞々しい稲穂の実る国と美称されるように、稲作が行われていたようです。

 

事実、縄文時代中期の土器に稲籾の痕跡がみられ、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけての水田の遺構が全国各地に存在しています。

 

米は比較的長期保存が可能な食料ですが、基本的に一年に一度しか収穫することができませんでした。

 

さらに、自然環境の影響も受けやすく、江戸の三大飢饉と称される享保・天明・天保の大飢饉は、冷夏・虫害・洪水などで稲作に甚大な被害がもたらされたことによるものでした。

 

このようなことから、古代11月には「新嘗会」(天皇が新穀を大神地祇にすすめ、親しく、これを食する祭儀}を執り行い、秋の実りを神に感謝し、「ハレ」の食べ物として大切にしてきました。

 

ここでは、日本人の主食である「ごはん」の魅力について、見ていきます。

 

おにぎりとお弁当

炊きたてのご飯はおいしい

 

ご存知のように、お米にはモチ米粳米(うるちまい)とがあります。

 

モチ米を蒸して杵でつくと餅に、赤く染めて蒸すと赤飯に変身します。

 

私たちが、通常、食べているご飯はうるち米を炊いたものです。

 

また、炊きたてのご飯は、何ともおいしいものです。

 

古来、お米が立ち、蟹の穴が空いたご飯になるまでには、たゆまぬ試行錯誤がくり返されたようです。

 

台所に竈(かまど)があった時代に、時計の針を戻してみましよう。

 

ご飯は羽釜(周囲に鍔(つば)のついた炊飯用の釜)を用いて薪で炊いていましたが、水加減には相当、苦労していました。

 

 

たとえば、1802年刊行の、100種類のご飯ものを記した料理本『名飯部類』には、

「新米は洗い米一升に水一升、古米の場合は洗い米一升に水一升一合」

と記されています。

 

 

また、『守貞漫稿』(喜田川守貞が1837年から約30年かけて江戸と京坂の事物’風俗を比較して記した百科事典)には、

「釜の中の洗い米に手を載せて水が甲の上を越す程度、あるいは、米の量に関わらず、釜の中の洗い米より一寸(約3.03センチ)ほどにまで水を入れる」

などと記述されています。

 

遠い昔のことのようですが、炊飯器が開発されるまでは、一般的にこの方法が行われていました。

 

今や炊飯器に刻印された水分量で容易に水加減ができますから、ウソのような話です。

 

このような炊き方をするご飯は「家常飯」(できあいめし)、または「炊干し飯」(たきほしめし)と呼ばれ、日本独特のものです。

 

この炊飯法にもっとも適しているのがジャボニカ米で、熱を加えると粘り気がでて美味しくなるのです。

 

この品種は日本をはじめ、朝鮮半島や中国北部を中心として栽培されていますが、全世外の米生産量の約2割程度を占めています。

 

「家常飯」に対して中国を中心とした東南アジアでは水加減の基準はなく、多量の水を加えて炊き、沸騰すると余分な水を捨て、弱火で蒸して仕上げる、「湯とり」と称する方法が行われています。

 

これにはインドからタイ・ペトナム・中国、さらにアメリカで生産されているインディカ米と呼ばれる長細い米が適していますが、ジャポニカ米に比べてパサパサした感じのご飯に炊きあがります。

 

ジャポニカ米とインディカ米の中間的存在としてジャパニカ米がありますが、炊きあがりも中間で、ジャワ島・インドネシアなどの東南アジア、イタリア・スペインなどで栽培されています。

 

おにぎりとお弁当

火加減にも細心の注意

ごはんのこと

 

さて、水加減もさることながら火加減にも細心の注意が払われ

 

「飯炊くに、はじめチョロチョロ、中グングン、噴きての後は少しゆるめよ」
(「名飯部類」)、

 

「始めちょろちょろ、中ぱっば、親が死んでも蓋とるな」(「守貞漫稿」)

 

など、後世まで伝えられる飯炊きの真髄を表現した名言が残されています。

 

水加減をまちがうとシンができ、火加減を誤るとご飯はこげてしまいますから、苦心していたことは想像にたか難くありません。

 

うまく炊きあかると、杉・サワラ・檜などで製された飯櫃(おひつともいう)に移し替え、余分な水分を吸収させて保管しました。

 

このような炊飯に関連する家事労働が一変したのは、昭和31年(1956年)、電気炊飯器が製品化されてからです。

 

水加減、火加減の苦労から解放されたわけです。

 

けれども、保温機能を備えていなかったため、あいかわらず飯櫃に移さなければなりませんでした。

 

三食のうち二食は冷めたご飯を食べなければならなかったのですが、昭和42年(1967年)、
保温もできる炊飯器が開発され、いつでも温かなご飯が食べられるようになったのです。

 

おにぎりとお弁当


ごはんとおかずのマッチング

 

18世紀のイギリス貴族サンドウィッチ伯爵は、食事時間もままならぬほど多忙であったため、執務中にパンに食べ物を挟んで食べていたと伝えられています。

 

これこそが「サンドウィッチ」のはじまりで、主食と副葉がマッチングしたものです。

 

日本では主食のごはんの上に、副菜をのせた丼物が、これに相当するといえそうです。

 

丼物は和食のなかでは、さほど古い歴史はありませんが、室町時代に始まったご飯に汁をかけて食べる、いわゆる汁かけ飯の「芳飯」が原型であるといわれています。

 

実際には『料理物語』という寛永20年(1643年)に刊行された料理本によりますと、
  


芳飯の汁 細かく刻んだ蒲鉾・栗・生姜・葉・揚げ昆布・茗荷・花鰹などを具材とし、鰹味を効かせた味噌汁

と記されて、味噌仕立ての汁をかけて食べていたようです。

 

いまのように副葉をトッピングした丼物のはじまりは、浅草雷門で天保8年(1837年)創業の「三定」が作った天ぷらに廿いタレをかけた天丼であるといわれています。

 

同時期に鰻丼深川丼(深川めしともいい、アサリ・蛤・アオヤギなどと葱を煮込んだ汁かけ飯、あるいは炊き込んだもの)も誕生しました。

 

さらに、明治23年(1890年)には、東京日本橋の軍鶏鍋屋「玉ひで」が考案した親子丼が、大正10年(1921年)にはカツ丼も生まれました。

 

カツ丼にまつわるエピソードとして、刑事ドラマのワンーシーンに警察署の取調室で「刑務所に入ったら食べられないだろうから」と、容疑者の食事にカツ丼を出して、自白を引き出すというのが定番となっていたことがありました。

 

また、受験生や試合を前にしたスポーツ選手が、ステーキとカツ丼を食べ、「敵」に「勝つ」の験を担ぎました。
いまでも行われているかもしれません。

 

さて、いまや国民食といわれるほど愛されているカレーは、明治時代にインドを統治していたイギリスから日本海軍に伝えられました。

 

カレーは代衣的なインド料理と思われていますが、インドにはカレーという言葉もなく、料理もありません。

 

インド料理をカレーと総称して、世界に伝えたのは、実はイギリス人だったのです。

 

インドの煮込み料理は使用する香辛料や料理法などから、それぞれサーグ、サンバール、コルマ、ダールなど個別の名があるのです。

 

それらは、今、私たちが食べているカレーとは違い、とろみのないサラサラしたものです。

 

18世紀後半、イギリスのクロスー・アンド・ブラックウェル(C&B)社が、あらかじめスパイスを混ぜ合わせた「C&Bカレーパウダー」を開発商品化したのにともない、フランス料理の影響をうけて小麦粉のルウでとろみをつけたものへと変化したようです。

 

日本ではご飯にカレーをかけて食べるスタイル、つまりカレーライス、もしくはライスカレーとなって独自の展開をみました。

 

1960年代、とろみのあるカレールウが普及したことにより、家庭料理としての地位を確立し、今日に至っています。

 

カレー味は子供から大人まで不動の人気味で、麺類にカレーをかけたカレー南蛮、ドライカレー、カレーパン、カレーコロッケ、果てはスナック菓子にまでおよぶカレー料理(食品)が生み出され、日本独自の発展を遂げています。

 

おにぎりとお弁当

卵焼き。おかずの定番

 

卵焼きおかずの定番

 

卵焼きは高度経済成長のまっただ中の1960年代、子供に人気のあるものの代名詞として
「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれ、卵焼きは家庭料理の定番となっていました。

 

鶏は約4000年ほど前から家禽として飼育されていましたが、日本では仏教伝来による肉食禁忌の風習によって、鳥獣肉をはじめ、鶏が生む卵もなかなか食用とされませんでした。

 

しかし、『たまご、たまご』の振れ声で、ゆで卵を商う行商「湯出鶏卵売」も出現しました。

 

吉原では、川柳に「湯上がりの玉子に塩の薄化粧」と詠まれたように、客が訪れる夜になると、ゆで卸売りが姿をみせるのが常となっていました。

 

この時期には、「玉子百珍」との別名もある「万宝料理秘密箱」(1785年)が刊行され、そこには103種の卵料理が紹介され、江戸庶民に好まれた食材となっていたことが推測されます。

 

当時も鶏卵の鮮度は、相当、気にしていたようで、『料理早指南』(1801年)には卵を商うことを生業としていると思われる男が、卵を透かして品定めをしている様子を描いた挿し絵があります。

 

簡単な見分け方は、新鮮なものは殼がザラザラし、重みがあるのです。

 

今日では、卵は割れないようにパックに入れて販売されていますが、昭和の時代にはクッション材としで籾殻を用いていました。

 

さて、卵焼きには関東と関西では差異があり、江戸前の卵焼きは寿司ネタとして用いられ、海老や魚のすり身に塩を加えて溶き卵を混ぜ合わせ、最後に砂糖を加えて弱火で焼いたものです。

 

一方、関西でけだし巻きと称して、溶き卵に調味した出汁を加えて焼いたもので、砂糖は加えません。

 

おにぎりとお弁当


 

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