上水道等、環境の整備

飲料水を供給する整備された上水道

 

家康から始まった江戸の上水道整備

 

都市が成立するためには水の安定供給が不可欠です。

 

しかし、江戸の町は海岸の湿地帯を埋め立てた土地が多かったため、井戸を掘っても当時の技術では塩気のある水しか得られず、飲用には適さなかったのです。

 

それをカバーしたのが上水道でした。

 

徳川家康は江戸に入る以前にこのことを知り、家臣・大久保忠行に上水道のの整俑を命じています。

 

これが神田上水の前身と考えられています。

 

井の頭池を水源とする流れに目白台下(現在の文京区関口)に堰を設けて川の流れを変えたものでした。

 

忠行はこの功績により、家康から「主水」の名をあたえられたが、「もんど」と読んでは水の濁りに通じることから、彼だけは「もんと」と読むことにしたという逸話が残っています。

 

その後、整備された神田上水は、関口から後楽園を経て、懸樋で神田川を横切り以降は木樋で配水しました。

 

この懸樋が水道橋の地名の起こりです。

 

配水地域は、下谷・浅草を除く下町の北側、駿河台や大手町などで、赤坂のため池の湧水も上水としてりようされていました。

江戸を潤した六つの上水道

 

江戸の拡大に伴い、水の需要も増加します。それに対応して開削されたのが玉川上水です。

 

工事は承応二年に行なわれましたが、羽村の堰から四谷の大木戸までの43キロをわずか八か月で開削されたのです。

 

四谷からは石樋と木樋で地下を通水し、その延長は85キロにも及び、江戸城をはじめ武家屋敷および江戸の南西部給水したのです。

 

しかし、神田・玉川を除く四上水は享保七年(1722年)には廃止されてしまいます。

 

儒学者・室鳩巣の意見具申によるものとされるのですが、詳しいことはわかりません。

 

亀有上水を利用していた人々は、以後は残された神田上水と玉川上水の末端(水道尻)から堀に流れ落ちる水を汲んで売りにくる水売りを頼るようになったといいます。

 

 

水道といってもポンプで圧力をかけているわけではないから、蛇口をひねれば水が出るという具合にはいきません。

 

見た目は井戸のような形で、必要な場所に枡をつくって水を溜め、それをくみ上げて使ったので、「上水井戸」などと呼ばれました。

 

上水は清潔さを保たねばばいけません。

 

そのために、玉川上水には多摩川の取水堰や四谷の大木戸に水番人が置かれ、濁り水や水量が多すぎる場合は渋谷川に放流したり、流れ着いたゴミを除去するなど、水質管理が行なわれました。

 

また、途中の代田村にも同様の番人が置かれていました。

 

さらには、上水流域の村には高札が掲示され、魚取りや水浴、ゴミを捨てること、洗濯が禁止され、「持ち場村」と呼ばれた田無などの村には、流域整備のために草刈りなとが義務づけられていました。

 

当然、こうした管理には経費がかかります。

 

水道料は、武家は石高、町人は屋敷の間口幅などで応分に負担し、農業用農水として分水した場合にも負担額が決められていました。

 

都市には上水が不可欠だが、下水も欠かすことのできない機能です。

 

現代の下水に流れる最大の汚物は屎尿だが江戸時代には、屎尿は貧重な肥料としてほとんどが汲み取られ、農地に還元されました。

 

しかも農民が買い取るシステムだから、みだりに農地以外の場所で処分されることはありえなかったのです。

 

上水などの水路が、比較的清潔に保たれた要因のひとつは、こんなところにもありました。

 

しかし、長屋などの生活排水のための下水は整備されておらず、必ずしも江戸の町が清潔だったとはいえなかったようです。

街道の整備で登場した名物料理と茶店

 

名物を広めた旅行案内書

 

江戸を中心に張り巡らされた五街道には宿場が多備されただけでなく、榎や松を植えた一里塚が設けられ、往来する人々に憩いの楊を提供していました。

 

また各宿場やその間には、旅人の休憩をねらった茶店も出現し、茶菓や軽食を提供していました。

 

その食べ物は、その土地ならではのものが多く、名物として広まっていったのです。

 

名物が各地に広まるには、旅行者の口伝えに加え、各種の旅行案内書がひと役買っていました。

 

その先駆けが、一七世紀なかばに刊行された「東海道名所記』です。

 

五十三次の各宿場の里程、名所旧跡の解説などの実用性と軽妙な筆致が人気となり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』とともに後代への影響も大きかったようです。

 

各地の名物だった食べ物に関する記述もあり、相模国大磯近くの梅沢の茶店では、僧形の主人公・楽阿弥を気遣った道連れが豆腐田楽や餅などを振る舞い、自分は名物の「鰹のあぶりもの」を頼むと、楽阿弥もそれをねだる短歌をひねったりしています。

街道の風景に捕かれた名物と茶店

 

現代の旅行パンフレットと同じように、人を旅に誘うのは視覚に訴える方法が有効です。

 

その意味での先駆は京都の俳人・秋里籬島で『都名所図絵』を皮町りに、『伊勢参宮名所図会』、『摂津名所図会』「近江名所図会』『東海道名所図会』など、挿絵の多い旅行案内を次々と刊行しました。

 

街道の風景をもっとも巧みに描写したのは、歌川広重の『東海道五十三次』シリーズだといわれています。

 

一方、庶民の多くは旅日記や道中記を残しています。

 

そこには、行程や宿ははもちろん、かかった費用なども詳細に記録されていました。

 

それは「講」などであとに続く人のためだったのですが、名物を紹介する記述も頻出するのです。

 

しかもそのほとんどか食べ物であり、餅や菓子が多いことも注目されます。


 

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