米本位制の江戸時代

「米本位制」。米が経済の根幹となった

 

米がすべての価値基準

 

江戸時代における「米」は、武士と都市部に偏ったこととはいえ、食生活の中心を占める食品だったのです。

 

しかし単なる食品にとどまらず、政治においては税そのものであり、経済においてはあらゆる価値の基準ともなる存在だったのです。

 

その意味では、江戸時代は「米本位制社会」といっても過言ではありませんでした。

 

支配者である武士の身分は、米の量を表わす単位「石」で示され、軍役などの基準とされました。

 

支配される農民もまた、耕作面積を「石高」で表示され、年貢の基準とされたのです。

 

たとえ畑地や屋敷地でも、田にした場合の収穫予想量の米に換算して生産力が規定され、米で年貢を納めなければならなかったのです。

 

 

豊臣秀吉による太閤検地以降、繰り返された検地を通じ、すべての耕作地は、その生産力を示す石高が付されるようになりました。

 

こうした極端な米至上主義は、古代の律令国家に端を発した肉食禁忌が、中世社会を通じて徐々に強まるなかで形成されたもので、江戸時代に確立されたと考えられます。

信仰にまでなった米尊重

 

たしかに米は栄養バランスに優れた食岫で、小麦などほかの穀類とくらべて生産性が高く、食味や保存性にも優れています。

 

こうした特徴をもつ米は、精霊や魂の宿るものとして信仰の対象にさえなったのです。

 

江戸時代初期に成立した三浦浄心の『慶長見聞集』には、

 

「昔は、米は仏様の骨の変じたものだと教わった。だからこそ人間は米を菩薩とし、穀物のなかで最高のものとしてあがめる。種のときは文殊菩薩、苗のときは地蔵菩薩、稲のときは虚空蔵菩薩、穂のときは普賢菩薩、飯のときは観世音菩薩、まとめていえば毘沙門天なのだ」

 

という一節あがあるほどです。

 

戦乱期が過ぎ、安定した支配構造が確立した一七世紀には、大規模な土木・治水上事が可能になり、水田の面積が大幅に増加したと考えられています。

 

しかし、米が社会の基本といいながらも、生産量は正確には把握できません。

 

慶長3年(1598年)段階の石高では1850万石、ほぼ100年後の元禄郷帳では2591万石ですが、これには畑地や屋敷地も含んでおり、米の実際の生産量ではありません。

 

ただ、明治初年の統計では薬3000万石で、江戸時代を通じて生産量は大きく増加していたことは確かです。

 

安藤安貞の『農業全書』(1697年刊)に代表される農書による知識の普及は農具の工夫などにより、農業技術は著しく進歩したのです。特に千歯抜きや唐箕など収穫後の脱穀の作業効率を高める農具の登場は裏作の作付けを早める効果を発揮しました。

 

また、米の種顛も江戸時代に大きく転換しました。

 

初期には、農民は自家用米としてインディ力種の赤米をかなりの量栽培し、ジャポニカ種を年貢として納めていました。

 

ところが、元禄期(1688〜1704年)ごろから米の商品化が進んだこともあり、次第に味の落ちる赤米が排除されるようになり、明治期にはほとんど姿を消しました。

生産者は米と雑穀を混ぜて食べていた

 

米の牛産者である農民自身は、年貢以外の余剰をほかの生活物資を得るために換金することも多かったのです。

 

また、翌年の種籾確保もあり、自家用にできる量はきわめて少なかったと考えられています。

 

 寛永一九年(1642年)に出された農民法令には、

 

「在々百姓食物の事、雑穀を用い、米おおく食べ候わぬ様」

 

とあります。

 

この年は飢饉だったが、同様の文言が「慶安の御触書」にも見えます。

 

この法令は近年では成立年代などに問題が多いとされていますが、支配者である武家の統制は、農民たちの生活の細部にまで入り込むほど厳しいものだったことがうかがえるのです。


 

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