江戸時代の外食産業

単身者の食生活を支えた外食産業

 

庶民の味方、屋台

 

ふつう、人が外食をするのは自分の家から遠く離れたときです。
したがって、それに備えた商売も街道や宿場から始まるのです。

 

巨大都市・江戸は、その成立からして他の土地からの移住者の集まりでした。
その性格を江戸時代中期の儒学者は「旅宿の境界」と表現しました。
江戸の町自体が巨大な宿場町と考えたのです。
ましてや江戸は単身者の多い町であり、外食産業が発展するのは当然のことでした。

 

天保7年(1836年)の町年寄の申し渡しによれば、文化元年(1804年)には江戸市中に6165軒の食べ物屋があり、これを5年間で6000軒以下に減らす計画でした。

 

ところが、文化3年の大火後、食べ物屋が増加し、抑圧すると生活に困窮する者が出るため、幕府は期限を延長せざるをえず、天保6年になってようやく5757軒にまで減少したという。

 

火除け地として設けられた空き地・広小路には、簡単な葦簀(よしず)張りの店が立ち並びました。

 

江戸橋広小路の床店は108軒だったが、このうち蒲焼・湯茶・大福餅など食品を扱う店は13軒で、食べ物屋は江戸の一大産業だったことかうかがえます。

 

また、文政6年(1823年)に書かれた『羽沢随筆』には、

 

「江戸の町中に住む者は、三度の食事について自分で炊事をしなくても間に合ってしまう。炊きあがった麦飯を売り歩く者もいるし、調理済みのおかずの類を売り歩く商人もいる」

 

とあり、刻んだ牛蒡(ごぼう)や皮をむいたクワイが売られる情景が描かれています。

 

これは現代のスーパーなどで売られるバック野菜のようなもので、あとの調理はいたって簡単にできるのです。

 

惣菜屋について『守貞謾稿』には

 

「菜屋」として、

「生鮑・するめ・刻するめ・焼き豆腐・蒟蒻・くわひ・蓮根・牛蒡・刻み牛蒡の類を醤油に煮染めとなして大丼鉢に盛り、見世棚にならべこれを売る」

 

とあります。

 

さらには、屋台の店は寿司・天ぷらを売る者が多いが、なかには酒と肴を売る店もある、としています。

居酒屋と一膳飯屋

 

江戸市中に多かった食の店

 

江戸の庶民の大半は、低収人の小商人や職人その日稼ぎの振り売りなどでした。
たとえば、大工でも1日の手間賃は約470文、月に銭で14貫文程度でした。

 

こうした人々を対象にした食べ物商売は、振売り・屋台なとが主ではあったが、徐々に屋台が固定化したような小屋掛けや、小規模な見世(店)も増えていきました。

 

 

文政6年(1823年)に書かれた『羽沢随筆』には、

 

江戸に食事を提供する店が多くなったのは「ここ二、三十年のことだ」

 

とあります。

 

その様子は「文化年間(1804〜18年)に入ると、江戸の食文化はいよいよ最高潮を迎えたことを思わせます。

 

周辺部でも食べ物を売る店が増え、都心部では店が10軒あれば、そのうち8軒か、9軒は食に羹する店と言います。町中にすんでいれば、三度の食事も自分で炊事しなくてもこまらない」というほどだったのです。

 

また、『守貞謾稿』に登場する江戸の料理屋は、茶漬け屋・祇園豆腐・料理茶屋・卓袱料理・泥鰌屋・山鯨屋・鶴屋・茶店・生洲料理屋など多岐にわたりました。

 

専門料理店の一方で、単身者向けの現在の定食屋に近い店もありました。

 

『五月雨草紙』に登場する「百膳」という店は、大竹輪・椎茸・青身魚の煮しめにつみれ汁と飯・香の物を一食100文で提供した、とあります。

 

こうした庶民の店の雰囲気を、幕末の大坂の書肆で狂言作家だった西沢一鳳は『皇都午睡』のなかで、高級料理屋は別にして、普通の料理屋や居酒屋・蕎麦屋・芝居茶屋などはみな女性を使わず、若い男が給仕にあたる、と記されています。庶民は色気より実質を好んだようです。

 

ただし、水茶屋は美人が売り物で、茶の味よりも看板娘が話題になったのです。笠森お仙や湊屋お六など、浮世絵に描かれたり、娘評判記の素材となった娘もいたのです。

 

 

また、庶民は酒も相当好んだようです。

 

「下り酒」の入荷量は、享保の時代の人口からすると、一人あたり年間一斗見当になるといいます。

 

小売価格は時期により変動があり、『金曽木』には、それまで一升124〜132文だったものが、明和5年(1768年)には248文になった、と記載されています。

 

江戸時代初期には冷やで飲まれた酒も、清酒の普及に伴って、次第に温めて飲む「燗酒」に変わっていきました。

禁忌だった獣肉の食べられ方

 

肉食禁忌か最高潮に達した元禄期

 

日本人の肉食禁忌は、律令国家が仏教を国教としたためとする説が一般的だが、それほど単純ではないようです。

 

むしろ農業、とくに稲作との関連が重要な要因で、極端な米尊重と背中合わせの関係で肉食への禁忌が深まったと考えるべきだろう。

 

この観念がもっとも深まったのが、すべての経済的価値を米に還元した石高制を実現した江戸社会だったようです。

 

とくに「生類憐みの令」を発した五代将・徳川綱吉の治世下、なかでも元禄期(1688〜1704年)に、肉食禁忌が最高潮に達したといえます。

 

しかし、実際にが、肉食がまったく行われなかったわけではありません。

 

現実にはさまざまな場面で食されており、肉類の流通ルートも存在していました。

 

動物の種類によっても禁忌の度合いは異なり、牛馬や家畜に比べて野生の獣肉は穢れが少ないとされていました。

 

天和二年(1682年)に刊行された『雍州府志』という本の中にも鹿や猪、兎などを食用に販売する町屋が京都にあったと記されています。

 

また、文政一三年(1830年)刊の『嬉遊笑覧』には、かつては、三河国・岡崎に獣肉店があり、江戸の四谷にも獣市が立っていた、とあります。

 

同書に引用された文献の成立年代からみて、江戸時代前期には、まだ残っていた肉食が17世紀後半から18世紀前半にかけて姿をひそめていたと考えられています。

獣肉鍋→牛鍋へ

 

牛鍋受容の下地となった獣肉鍋

 

この禁忌か緩んでくるのは、史料にみられる獣肉砧に関する記述の増え方からするとと、文化〜天保期(1804〜44年)ごろと思われます。

 

戮田川守貞の『守貞謾』稿には獣肉の料理屋『山くじら』の看板を出すこと、肉食が盛んになったのは天保のころからであり、猪や鹿の肉に葱を加えて鍋にし、豚肉の鍋を琉球鍋と称したことなどを記しています。

 

なお、江戸時代の前半には、田畑の開発が鳥獣の棲む地域への人間の進出を促し、鳥獣を害獣視する傾向も強まりました。

 

そのため農村では早くから、牡丹鍋(猪肉)、紅葉鍋(鹿肉)などと称して野生の獣肉を鍋にして食べることが行われており、明冶になって急速に普及する牛鍋を受け入れる下地となったと考えられます。

 

江戸の獣肉店に食材を供給したのは、上野・下野・常陸・下総などの関東平野周辺の国々の山間部で、輸送には利根川などの河川による流通網が利用されました。

 

もともと武家社会では、武力の象徴として狩猟が重んじられており、獣肉食は一般的なものだったと考えられます。

 

江戸時代の中期から近江国彦根藩では、牛肉を将軍や幕閣の要人への贈答品として用いていたし、陸奥国仙台藩の料理人・桶川房常の『料理集』にも牛肉料埋か登楊しています。

 

ただし「食すれば百五十日の穢れ」と注記されており、禁忌の意識は保たれていたのです。


 

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