江戸時代と和食

江戸の食。和食

 

「おいしい、美しい、ヘルシー」

 

これが和食に対する世界三大評価です。

 

江戸の科理人たちが、もっとも気配りしたのかダシのとり方と、材料の持ち味をいかすことです。
魚にしろ、野菜にしろ、旬の物がもっとも味がよくなるから、その味をこわすようなことはしないのです。

 

ですから、脂ののった旬の魚は、まず生食の刺し身にして、季節の味を楽しんだのです。
野菜や山菜だったら天ぷらの衣をつけて一気に油で揚げて、旬のうまみをとじこめてしまうのです。

 

持ち味を完璧に生かすのが、日本人の料理法の神髄であり、それを最優先にするということは、「もち栄養」つまり、素材が旬までため込んだタンパク貿やビタミンなどを、そっくりとり込んでしまうことだから、当然、栄養効率もよいのです。
これが、江戸流の食べ物作りの原点なのです。

 

これらの基本は、もちろん、現在の伝銃料理や家庭科理にも受けつがれています。

 

「一汁三菜」が定着したのも江戸時代です。

 

 

欧米では、和食系の料理、中でも鮨はヘルシー・フードとして大ブレークしています。
たしかに、肉中心の脂防の多い料理にくらべ、魚中心の鮨は、低カロリーであり、はるかにヘルシーです。

 

しかも、指先でつまめるほど小さい。そして、美しい。
色彩も豊かに、お客の目の前であっという間に完成してしまう鮨。
そのあまりにも鮮やかな手業に、お客は目を丸くして感心するのです。

 

そして、3秒間のアートといってよろこぶのです。
この「3秒間の芸術」を生んだのが江戸の町だったのです。
速い、うまい、かっこいい。この三拍子が揃っていなければ、鮨ではありません。

 

しかも、一貫一口半の大きさで握る。
鮨が一口で入ってしまっては、その旨さが次の楽しみに残らない。
一口では食べきれない大きさにすることによって、旨さの余韻を半分残し、続けて楽しむのが江戸っ子流なのだ。

 

「かっこいい」というライフスタイル、手業、物作りの仕方こそ、江戸の町人の幕らしを象徴する「粋」の文化なのです。

 

江戸っ子は、刺し身の切り口、飯の盛り方、脂やそばの食べ方などに、粋なスタイルを見せたのです。

 

まさに、クールージヤパン(かっこいい日本)なのです。
この言葉自体、最近の日本文化に対する礼賛であるか、その源流こそ食や歌舞伎、ファッションなどに見せた江戸の町人文化なのです。

 

町人だちか生み出した鮨やそば、てんぷら、どんぶり物、おでんなどは、今や国際語ともなり、人気を博しているのです。

 

これらの料理は、誕生した時点で日本人の味覚をとらえ、さらに国際化する魅力を持っていたのです。

 

最近では、「UMAMI(うまみ)」や「DASH1」(だし)という言葉も、アメリカやヨーロッパの料理界では通じるようになってきています。

 

 

いまよりおいしいご飯を食べていた江戸時代

「米のうまみ」が味の基準

 

日本人の味覚の基本は、米に含まれているでんぷん質の「甘味」です。

 

よく炊き上がったご飯を、口の中で噛んでいると、かすかな甘味が出てきますが、あの味が日本人の味の基準になっているのです。

 

歴史的に、ご飯に添えられた副食物を味の面から調べてみると、時代によって変動はありますが、基本になっているのは、塩辛いもの、酸っぱいもの、辛いもの、苦いものなどの風味持ったものが多く、これらは、米でんぷんの味を引き立てる上で非常に役に立つものばかりなのです。

 

日本で稲作が開始されるのは、3000年ほど前ですが、それ以来、ずっと「米」を主力とする穀物が主食になってきました。

 

これは、一貫して現在まで続いています。

 

副食物の種類は、時代によって変動しましたが、米が「主食」の座からおりたことはありません。

 

日本人は米の味に対しては、たいへんデリケートなのです。

 

 

江戸時代の人たちのほうが炊飯は上手

 

江戸時代の初期までは、ほとんどの場合、玄米かそれに近い米を食べていました。

 

江戸の町に米搗きが登場するのが明暦(1655〜58)の頃で、元禄になると都市部では白米食が行き渡っていました。

 

「江戸の食い倒れ」といわれた文化・文政期になると、下層階級まで自米食は当り前となり、それが江戸っ子の自慢でもあり、「麦飯喰ふくれえなら、死んたはうがましだ」と言うほどになった。

 

日常のおかずは、米本来の味である甘味を引き立てるものが中心でした。

 

納豆であり、漬けけ物、梅干し、塩いわし、さば、さんま、なめみそ、味噌汁、とろろ汁、小魚類のつくだ煮、海苔、でんがく、あぶらげ、芋の煮物、煮豆などでした。

 

 

白米をどのように炊いて食べていたかというと、次の名言が残されています。

 

 「食いたくば、始めひょろひょろ、中くわつくわ、親は死ぬとも蓋とるな」

 

というもので、羽釜を使ったかまと炊きでした。ふっくらと甘みがあり、たいへんにおいしいのです。

 

これが日本人が最も好む「直火炊き」で、釜底の米粒がひと粒並びに、きつね色に色づく炊き上がりになります。

 

弱火で炊きはじめ、釜の中が沸騰してきた強火にし、蓋を取らずに残り火でむらすというものでした。

 

現代の電気釜では、なかなかこうならないのです。

 

つまり、江戸時代の人たちは、現代の私たちよりおいしいご飯を食べていたのです。

現代人の2倍の米を食べていた

 

日本人は、昔からI人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきたのです。

 

それが、江戸初期の日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていました。

 

明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていました。

 

大正末期に6000万人となったのですが、米の生産量も6000万石に達していました。

 

米の生産増が、人口を増やしていたのです。

 

一年に一石というと、一日には約410グラムになりまする。

 

現在の日本人が食べている量は200グラム弱ですから、江戸時代の人たちの半分以下です。

 

日本人が現在と同じように、一日に3回食事をするようになったのは、江戸時代の初期からで、大人で一日にざっと1合(750グラム)の米を食べていました。

 

三回食になる前の時代は、ずっと朝と夕の2回食であり、一食分が2合5勺(しゃく)(約375グラム)です。

 

江戸時代には2合5勺の升がありましたが、これはこの2食時代の名残りであると言われています。

 

江戸と上方とでは食事のとり方がちがうと、幕末の『守貞漫稿』に次のように出ています。

 

「京坂(上力)では昼に飯を炊き、煮物や魚類または味噌汁など二、三種を合わせて食べます。江戸では朝に炊き、味噌汁を合わせ、昼と夕は冷飯を食べる。ただし昼には一菜を添え、疏菜や魚肉などは必ず昼食に食べるが、夕飯は茶漬に香の物を添えるだけである。上方でも朝と夜は冷飯と香の物である」

江戸と上方の朝食・夕食

 

江戸の町人たちの朝は、炊きたての白い飯に、みそ汁の食事ではじまる。

 

季節にもよりますが、味噌汁は、次の川柳にあるように、豆腐汁にする場合が多かったといわれています。

 

  納豆を 帯ひろどけの 人が呼び

 

「納豆屋さーん」と、あわてて飛び出してきたおかみさんが、帯を引きずりながら、追っかけている様子です。

 

当時の納豆には、現在と同じような普通の納豆と、たたき納豆がありました。

 

叩き納豆は、インスタント納豆汁の元祖みたいなもので、包丁で叩いた納豆に、青菜と角に切った豆腐が添えてあります。

 

火にかけた鍋の中に、味噌といっしょに流し込めば、即座に納豆汁ができ上がるという、たいへんに便利なものでした。

 

熱つあつの飯に、納豆と生卵をかけるという食べ方もありました。

 

納豆屋ばかりではなく、豆腐屋もしじみ売りも、さらには、煮豆やつくだ煮などの総菜屋もやってきました。

 

女性にとっては、実に便利な江戸の行商のシステムなのです。

 

朝食は、納豆汁などの味噌汁のほかに香の物かつきます。

 

朝に一日分の飯を炊いてしまうから、昼は冷や飯となり、これに野菜のおひたしや芋や大根の煮物、あるいは魚料理のどちらかがつきます。

 

味噌汁は、朝のものをあたためて盛る。残っていなければ、お茶というシンプルなものです。

 

 

これが上方になると、飯は昼食時に炊くのです。
これに味噌汁がつき、魚や野菜料理の一品がつきます。
したがって、上方では、朝と夕は冷や飯となるのです。

 

以上は、幕末の風俗史書として有名な『守貞漫稿』にある記述です。

 

では、使用人の多い大家や大店の場合は、どうでしょうか。
三食とも飯を炊き、その都度、野菜汁を出すところもあるが、これはまれです。
三食のうち炊くのは、たいがい朝夕の二炊となのです。

 

おかみさんたちの生活力庶民は、たいがい長屋住まい路地の奥には共同井戸があり、そこで米を研いだり、野菜を洗ったりします。

 

井戸端で洗濯などもするから、長屋の住人の切れめがないのです。

 

 井戸端へ 人の噂も 汲みに行き

 

当時の川柳で、井戸は一つしかないから、おかみさん連中のたまり場となるのでした。。

 

井戸端でワイワイ立ち話をしている所へ、運の悪い魚屋がやってくる。すると寄ってたかって値切り、大振りの魚を刺し身に作らせる。そこに、うまい具合に、酒屋の小僧がやってきたので、酒を一升待ってくるように命じ、たちまち車座になり、どんぶり鉢で昼さがりの酒盛りが始まる。

 

これはは、天保三年(1832年)に刊行され、天保年間の江戸の世相を風刺たっぷりに記した寺門静軒の『江戸繁昌記』に出てくるエピソードです。

地方では麦めし粟めし

 

雑穀と江戸時代

 

現在の日本人の主食は白米です。

 

しかし、歴史的にみれば、精白した真っ白いご飯を好きなだけ食べられるようになったのは、戦後も昭和三十年(1955年)代になってからです。

 

一億総白米食の歴史はたかだか60年くらいしかないのです。

 

それ以前は米に麦や栗、きび、ひえ、大豆。さらにはさつま芋、じゃが芋、大根などを混ぜて炊いた「かて飯」が日常食だったのです。

 

江戸時代の主食の形態を調べてみると、江戸や大坂のような都市では白米飯になっていました。

 

が、地方では麦飯やかて飯が当り前で、江戸時代後期の世相を記した「守貞漫稿」に、江戸や大坂、京都などでは白米であるが、田舎では「麦を混ぜるか、半麦や麦7分に米三分などで分量は不同である」と記されています。

 

当時の川柳にこんなものがあります。

 

 ぶき女 さて麦飯は 上手なり

 

田舎から出てきた下女は、麦飯を炊くのだけは上手、という意味です。

 

真っ白い米飯を腹いっぱい食べたいばかりに、江戸に出稼ぎに来る場合も少なくなかったようです。

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