天ぷら。蕎麦・うどん

関東と関西の天ぷら

 

関西には、天ぷらと呼ばれるものが二つあります。

 

一つは小麦粉を用いた衣をつけて油で揚げたもので、もう一つは魚のすり身を油で揚げたものです。

 

関東と関西の天ぷらの違いは江戸時代からみられ、『守貞漫稿』には、
 


京都や大坂では魚のすり身(半平)を胡麻油で揚げたものをてんぷらといい、油で揚げないものは半平と呼んでいる。

 

江戸にはこのようなてんぷらはなく、魚や海名などに小麦粉を練った衣をつけて揚げたものをてんぷらという。

 

京都や大坂では、こうしたてんぷらはつけ揚げと呼ぶのである。

と、関西では半平を油で揚げたものを天ぷらといい、衣をつけた天ぷらを「つけ揚げ」と呼んだと記していますが、今では区別なく「天ぷら」と呼んでいます。

 

ちなみに、関西でいう天ぷらと類似した「薩摩揚げ」との相違は、薩摩揚げは魚のすり身に調味料が加えられていることです。

 

さらに、関東と関西の違いは、揚げ油にみられ、関東では胡麻油、関西では胡麻油以外の植物油が使用されることです。

 

その理由は、江戸前天ぷらのタネは魚貝類が多く、その臭みを消すためであるともいわれています。

 

江戸時代の揚げ油は主として胡麻油でしたが、油を使用した料理は危険を伴うことから、当時から細心の注意が払われていたようです。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」といいますが、江戸庶民の天ぷら油への心構えは『科理早指南』四編(1804年刊行)に、

油を然している時に油の中に火が入って燃え上がることがある。その時、うろたえて水を油に入れると益々、燃え上がり危険な状態になる。

 

こんな時は慌てず、冷静に青物を少し、油の中に投げ入れると火の勢いは衰え、消火できる。

と、油に火が入ったときは、手近にある野菜を投げ入れればよいと、対処法を記しています。

江戸の原風景、屋台の蕎麦屋

 

蕎麦は蓼科に属する中国奥地原産の植物で、奈良峙代以前に日本に伝来しましたが、飢饉対策の雑穀で、もっぱら農民の食べ物とされました。

 

たとえば、藤原道綱の子心で天王寺別当となった道命阿闇梨(974〜1020年。中古三十六歌仙の一人)は諸国巡礼の旅の途中、山賎から蕎麦料理を供された時、

ひたはえて 鳥だにすゑぬ そま麦に ししつきぬべき 心地こそすれ
(鳥さえ近寄らないくらい一面にはえている蕎麦だけれと、猪は荒らしにくるだろうな)

と、鳥さえ見向きもしないと詠むほど、見知らぬ食べ物に驚愕したのです。

 

師が口にしたのは蕎麦の実の粥か、あるいは役行者も食したともいわれる「蕎麦がき(そば粉を熱湯で練って餅状にしたもの)」で、都人の食膳には決してのぽらない粗末なものでした。

 

しかし、江戸時代に入って寒冷地の開拓がなされるようになると、二〜三ヶ月で成熟するほど生育が早く、肥料も必要とせず、寒冷地ほどよく育つ蕎麦は、痩せた土地で栽培するには最適であったため、生産量も増大しました。

 

また、何千人もの餓死者を出すような大飢饉に備えて、幕府をはじめ各藩でも保存食の開発が必至となり、乾麺は長期保存食としては最適なものであったのです。

 

蕎麦は江戸時代以前は、粒状のままか、道命阿開梨が食したような「蕎麦がき」にされ、今日のような麺状のものではありませんでした。

 

現在、蕎麦と呼んでいるものは「蕎麦切り」といい、慶長19(1614年)、江戸に滞在していた近江・多賀神社の社僧慈性が記した「慈性日記」に初めて登場します。

 

当時の蕎麦切りは100パーセント蕎麦粉で打った「生そば」で、かろうじてつなぎとして重湯や、すり漬した豆腐などが用いられていました。

 

今日、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜ合わせたものを「二八蕎麦」と称していますが、つなぎとして小麦粉を混ぜるようになったのは、元禄年間(1688〜1704年)から享保年間(1716〜1736年}の頃のことです。

 

蕎麦つゆには味噌だまりと大根おろしの絞り汁に削り鰹が用いられましたが、醤油の普及によって、みそ味は険を潜めていきました。

 

蕎麦のおいしさを引き立てるのは、今日、濃口醤油と砂糖・味琳を煮詰めて作った「かえし」と、出汁でつくられた蕎麦つゆであるといえるでしょう。

 

貞享年間(1684〜1688年)には蒸龍で蒸した「蒸し蕎麦」が流行し、江戸中期には江戸深川洲崎にあった蕎麦犀「伊勢屋」が、蕎麦を竹ざるに盛って山す「ざる蕎麦」を創作し、明治になってから「ざる蕎麦」には海苔がかけられるようになりました。

 

大晦日に「年越し蕎麦」を食する習慣も、この頃から始まったと伝えられています。

 

元来、蕎麦は蕎麦つゆをつけて食べる盛蕎麦でした。

 

元禄年間には、つゆをつけて食べなければならないことをまどろっこしく感じた江戸っ子たちは、いっそのこと喬麦の上につゆをかけたら手早く食べられるのではないかと、「かけ蕎麦」を生み出しました。

 

暑い時季には冷たいつゆ、寒い時期には温かいつゆをかけるようになったのです。

 

ちなみに、かけ蕎麦の始まりは寛延四年(1751年)刊行の『蕎麦全書』に、新材木町にあった「信濃屋」がはじめた「ぶっかけ」で、この食べ力はあまり上品ではないとも記されています。

 

江戸時代後期には『守貞漫稿』などによりますと、

あんかけ(葛あんをかけたもの)・あられ(ばか貝の貝柱をのせたもの)ご天ぷら・花巻(浅草海苔を揉んでのゼたもの)・しっぽく(焼鶏卵・椎茸・蒲鉾などをのせたもの)・王子とじ・鴨南蛮(鴨肉と葱を入れたもの)・親子南蛮(鶏肉と鶏卵、玉葱をいれたもの)

など、バラエティに富んだ蕎麦が登場しています。

 

江戸時代前期においては、蕎麦屋やうどん屋は店を構えることなく、「振り売」と呼ばれる行商が主で、17世紀半ばには、振り売が江戸市中に蔓延したため、徳川幕府は許可書として鑑札を発行して取り締まりを行ったほどでした。

 

さらに、時代劇などにも登場しますが、夜遅くまで商う「夜鷹蕎麦(夜泣き喬麦ともいう)も17世紀後期には流行し、防火対策のため夜間の振り売りを幕府は厳しく禁止したといいます。

 

江戸時代半ばから、徐々に店を構える蕎麦屋が登場し9世紀に入ると江戸では一町に一軒の蕎麦屋があったといわれるほど大繁盛し、万延元年(1860年)には江戸府内に3763軒の蕎麦屋がひしめきあっていました。

京坂では蕎麦屋よりもうどん屋

 

一方、同時期の京坂では蕎麦屋よりもうどん屋が流行り、4〜5町に一軒、あるいは5〜7町に一軒、少なくとも10町に一軒はうどん屋があったといいます。

 

今日、「関東の蕎麦屋、関西のうどん屋」といわれる所以は、江戸中期に成立していたのです。

 

さて、うどんや蕎麦は、江戸初期では店売りの場合、製麺製造が菓子屋の領域であったため、副業として菓子屋で売られていました。

 

その名残は京都の尾張屋や河道屋の屋号で知られる蕎麦屋にみられ、どちらも蕎麦のほか、蕎麦ぼうろ、蕎麦饅頭なども商っていることからしることが出来ます。


 

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