鮨のはじめ

すしのルーツ

 

すしは8世紀はじめまで遡ることができる歴史ある料理ですが、現在のものとは、いささか異なった形状をしていました。

 

養老3年(719年)に施行された『養老律令』には、あわびすし・いかすしなど、また『延喜式』には鮎・鮒・鮭など淡水魚すしも記されていますが、これらのすしは米飯と一部に漬け込んだものでした。

 

つまり、米飯のデンプンから生成される乳酸によって発酵を促し、魚に特有の風味をつけた料理で、「なれずし」と呼ばれるものでした。

 

その形状は、『今昔物語』に記される鮨鮎売りの女の話に詳しく、

昔々。京都に住んでいたある人が、知人を尋ねた時の話である。
鮎の行商をしていた女(販婦)が鮎の入った桶の傍らで寝ていた。
なぜ、寝ているのだろうかと思って、よくよく見てみると泥酔して寝ていたのであった。女をそのままにして、知人宅を訪ね、用を済ませて馬に乗って帰ろうとした時である。
女は驚いて目を覚ましたが、気分が悪くなり、商売物の桶の中に嘔吐してしまうたのである。
「ああ、何と汚い」と思って見ていると、不始末をしてしまったと感じた女は、鮨鮎の桶の中のものと自分が吐き出したものとを、手で混ぜてしまったのである。

と、女は泥酔のあまり嘔叶してしまいましたが、それを鮨鮎に混ぜてしまえば分からなくなったとありますから、馴鮨はかなりドロドロと混ざり合ったものであったと想像できます。

 

このように、馴鮨の米飯は分解して粥状になっているため、今日のように米飯を一緒に食べるのは不可能で、魚のみを食べていたのです。

 

現在にも伝わる馴鮨としては『延喜式』にも名が挙げられている近江(滋賀県)の「鮒竹」が有名で、江戸時代以来、琵琶湖の固有種であるニゴロブナが最適とされてきました。

 

周囲に海のない近江で発達した馴鮨は、日持ちのしない魚肉を発酵させて、米飯を防腐剤として用いた知恵の結晶ともいえる食べ物といえます。

 

馴鮨は室町時代になって、やっと、今日の「すし」に近づいてきます。

 

米飯と一緒に漬け込む調理法に変化はありませんでしたが、このころから、完全に発酵する前、つまり、米飯の一部が分解して酸味が出たところで、米飯と一緒に食べるようになったのです。

 

これを未熟なという意味がある「生成」(なまなれ)と称しました。

 

このように、米飯も魚と一緒に食べるようになった「生成」は、以前の副食的なものから主食としての第一歩を踏み出したのです。

 

さらに、江戸時代にいたって、今日と同じ米飯に酢を加えて作る「早ずし」が完成し、酢飯と生魚、卵焼きなどのネタを同時に味わうものとして大転換を遂げたのでした。

上方の箱ずし・巻ずし

 

江戸時代初期の早ずしは、「こけらずし」にと呼ばれる「箱ずし(押ずし」「巻すし」が中心でした。

 

「こけらずし」とは箱型の枠にすし飯を詰め、その上に薄く切った魚肉や貝肉、卵焼き、椎茸などを「こけらぶき(板葺き屋根の仕様のこと)」のように並べたことからの命名であるといわれています。。

 

京都の鯖ずし、大阪の箱ずしは、ともに「こけらずし」の系統で、前者は若狭で水揚された鯖を18里離れた京へ運んで「捧ずし」にしたものです。

 

若狭で鯖に施された塩は一夜過ぎて、京の都に到着するころに、ちょうど良い塩加減になっていたといわれています。

 

鯖を担いで運んだ若狭から京への道筋は、「鯖街道」と呼ばれています。

 

また、「巻ずし」は、江戸叶代中期の料理本では「塩と酢で漬けた魚肉を、薄く切った大根で巻いたもの」とあり、後期になって、ようやく現在のように浅草海苔の上にすし飯を平たくのばし、さまざまな具材を置いて巻くものになりました。

 

巻ずしにも江戸と京坂に差異がみられ、『守貞漫稿』に

「江戸ではカンピョウの細巻きが主流であるが、京坂ではシイタケやウドを巻いていた」

とありますから、この頃から「関東の細巻、関西の太巻」があったようです。

 

関西でいうところの「巻ずし」は、関東では「海苔巻」と呼ばれ、「巻ずし」は海苔を一枚丸ごと使った巻物ですが、「海苔巻は半分の大きさしか用いない細巻きです。

 

次のような細巻があります。

 

鉄火巻:鮪の切り身または剥身、タタキ身を巻いたもの。
名前の由来は、鮪の赤身の色が、熱した鉄の色と似ているからという説などがあります。
ネギトロ巻:鮨の切り身または剥身などの脂身に刻みネギを加えて巻いたもの。
あなご巻:煮穴子を巻いたもの、胡瓜を加えた場合は、「アナキュウ」と呼びます。
カッパ巻:胡瓜の千切りか、細切りを巻いたもの。
新香巻:通常、沢庵を匹いたもの。

 

巻ずしと同様に、稲荷ずしも関東と関西では形が異なり、関西は三角、関東は枕形です。

 

『守貞漫稿』によりますと、

天保の永年に、江戸では油あげ。豆腐の一方をさいて袋状にし、飯にきくらげ・干瓢などを刻んだものを詰め込んで鮨としている。
この鮨は日夜、販売されているが、鳥居の絵を描いたあんどんをつけて専ら夜に販売されたため、稲荷鮨あるいは篠田鮨という。

とあって、天保末年(1844)には枕形であったと推測されます。

 

また、稲荷明神の使者である狐の好物が油揚げであったことから稲荷ずし、さらには大坂の信太の森の狐伝説から「信太ずし」(篠田ずしとも書きます)と呼ばれたのです。

 

さらに、アメリカのスシ・バーで生まれた「カリフォルニア・ロール」も巻ずしの一種といえますが、蟹風味かまぼこ(あるいは如でた蟹の脚身)・アボガドをネタにマヨネーズや白胡麻を加えるなど、アメリカ人の嗜好にあわせて作り出されたものです。

 

これらが「すし」といえるかどうかは、意見が分かれるところかもしれませんね。

 

また、郷土色豊かな寿司として「柿の菜ずし」を紹介しましょう。
奈良県(和歌山県・・石川県にも)の郷土料理として有名な柿の葉ずしは、鯖・鮭・小鯛・穴子・椎茸などの切り身を一口大の酢飯に合わせて、柿の菓で包んで重石をのせてなじませたものです。

 

奈良県は正岡子規が「柿食えば鐘が嗚るなり法隆寺」と詠んだほどの柚の名産地で、柿の葉には殺菌効果があるといわれ、鯖の過剰発酵を抑え、酢飯の乾燥も防ぐという機能から生まれたアイデアです。

 

柿の香りがほどよくしみ込み、風味あるすしといえます。

江戸っ子は握りずし

鮨(すし)

 

江戸時代後期には飲食店が大変繁栄し、すしの専門店「すし屋」も現れ、日本橋と京橋の中間地点にあった「中橋のおまんずし」が有名になっていました。

 

小鯛を用いた「おまんずし」の由来は、女房おまんの名に因んでつけられたともいわれ、彼女は当時、人気博していた歌舞伎役者瀬川路考(初代瀬川菊之丞)にそっくりで、美人の評判が高かったとも伝えられています。

 

さて、江戸の「すし」といえば「握りずし」ですが、その始まりは文政文政5、6年(1822〜3年)に、江戸両国の華屋与兵衛がすし飯に新鮮な魚貝類や卵焼きなどのネタをのせて握って売り出したものといわれています。

 

このころの「握りずし」について、『守貞漫稿』は、

今、江戸でつくられているにぎりすしに、鶏卵焼き・車海名・海老そぼろ・白魚・鮪さしみ・こはだ・穴子甘煮などがあり、だいたい値段は八丈である。そのうち玉子巻きは十六文する。
これに新生姜の酢漬けと姫蓼が添えられる。
酢の仕切りに熊笹を用いるが、京坂では葉蘭を用い、紅生姜といって梅酢漬を添える。

と記しています。

 

換算しますと、玉子巻はだいたい260円、その他は半額の130円程度だったようで、玉子・穴子・小鰭・白魚の握りずし、干瓢巻などのイラストも掲載されています。

 

すしといえば、生姜がつきものですが、これにも関東と関西では違いがあり、関東が新生姜の酢漬であるのに対して、関西は紅生姜です。

 

江戸で発達した握りずしのネタは、天ぷら同様、東京湾でとれた魚貝類を用いたもので、握りずしを中心とした「江戸前ずし」へと発展しました。

 

現在、江戸前握りずしのネタは、鮃・鰈・鯛・鱸・白魚・鮪・カジキ・鮭・縞鰺・カンパチ・鰤・コハダ・サヨリ・小鯛・鯖・鯵・鰯・赤貝・みる貝・鮑・アオヤギ・鳥貝・蛤・海老・シャコ・蟹・烏賊・タコ・穴子・イクラ・ウニ

 

などの魚貝と、卵焼き・椎茸・芽葱などが供されます。

 

これらの魚貝類は生で使用されますが、酢締め(コハダ・鯖など)・醤油漬け(鮪)・煮物(穴子・蛤など)に調理したり、蛸や海老などは茹でて下処理がされることもあります。

 

ウニやイクラなどの握りにくいものは「軍艦巻き」といって、握ったすし飯の周囲を海苔で巻き、ウニやイクラなどのネタが落ちないようにのせます。

 

海苔の黒さを鉄の軍艦に見立てたと考えられますが、昭和16年(1941年)に東京・銀座の寿司屋「久兵術」が考案したとも伝えられています。

 

今日では、全国的に江戸前の握りずしが食べられていますが、これは関東大麦災(1923年)で、すし職人が関西に移住したことから広まったそうです。

 

さらに、このころから下魚とされていた鮪がすしネタになり、今や脂ののった大トロは高級品となっています。



 

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