日本は野菜の宝庫

野菜のこと

 

古代、野菜は今日のサラダのように生食が主流でした。

 

現代人はメタボリックシンドローム対策として「野菜を多く食べなくては…」と、積極的に食べているようです。

 

生のまま食べるサラダは手もかかりませんが、和食にはそればかりでなく、如でる、煮るなどの熟を加えて調理された和え物・煮物があります。
これこそ、和食の奥義といえるものでしょう。

 

日本は野菜の宝庫

 

昨今は成人病の予防から野菜を多く摂取するようにとの提案がなされているわけですが、古代人の食生活は現代人とくらべても野菜を多食する、かなり健康的なものだったといえるようです。

 

たとえば、奈良時代には、

生瓜・黄瓜・熟瓜(真桑瓜のこと)・胡麻・芹・スズナ・カブラナ・蕗・ちさ・大根・芋・なす里芋・蕨・薯・ヤマノイモ・ぬなは・蓮根・竹の子・葛・アサツキ・ネビル・ノビル・タラ・ニラ・たぜ・クワイ・はじかみ・人参
(『古事記』『万葉集』『日本書紀』などから)

など、今日も食用としている野菜が多く食べられていました。

 

ただし、食用となる部分が、今と少し異なるものもあります。

 

たとえば、大根は古くは「おおね」あるいは「すずしろ」、「おおねぐさ」などと呼ばれましたが、弥生時代にシベリアから中国、朝鮮半島を経て日本に伝えられた北方系の野菜です。

 

原種はなんと地中海沿岸に自生するといい、茎が小さかったため、主として葉のほうを食していました。

 

現在では、大根足、大根役者などあまりいい意味に使われないようですが、奈良時代には女性の肌の白さを形容する語でもあり、「あなたは大根のようだ」と言われれば、喜ばなければなりませんでした。

 

平安時代に入ると、 

零余子・ハコベラ(ハコベの異称)・蒟蒻・薺・アケビ(倭名類聚抄」による)

などが新たに加わり、さらに豊かなものとなりました。

 

中国から朝鮮半島を経て伝来した

これらの野莱の中で日本原産のものは極めて少なく、蕗・独活・山葵・ジュンサイ・蕨・ゼンマイぐらいにしか過ぎないといわれています。

 

現在、食卓にのぼっている野菜類も原産地は、中国から遠くはアフリカにいたるまでの広範囲にわたり、それらは概ね、中国から朝鮮半島を経て伝来したと言われています。

 

さらに、16世紀末期から始まった南蛮貿易によって、
西瓜・南瓜・玉蜀黍(とうもろこし)・蕃椒(とうがらし)・甘藷(さつまいも)などが海外から伝えられました。

 

これらも中国を経由して日本に伝えられ、熱帯アフリカが原産の西瓜は1579年に日本に伝来しました。

 

さらに、南瓜(南米ペルーのアンデス山麓原産原)は、ポルトガル人が寄港地カンボジアから伝えたところから「かぼちや」と称しましたが、南瓜と書いて、そう読ませるのは寄港地とした中国・南京にちなんでのことです。

 

さて、コロンブスは世界旅行をしたことによってさまざまな食材を発見し、今日の食生活に大きく寄与しました。玉蜀黍もとうがらしも彼によって見出されたものです。

 

前者は南米ペルーで発見され、ヨーロッパにもたらされたのち、天正7年(1579年)、長崎に南蛮船(ポルトガル船)によって伝えられました。

 

関東では「とうもろこし」、関西では「なんばんきび」と称しますが、「なんばんきび」を省略して「なんば」とも呼ばれます。

 

メキシコ原産のとうがらしは、コロンブスがイスパニアに持ち帰って全ヨーロッパに伝播し、中国では外国から来た辛子という意味で番椒あるいは蕃椒と記しました。

 

日本へは永禄2年(1559年)に甫蛮船によって豊後の府中(大分市)に伝わり、そののち、文禄の役(1592年)の際、加藤清正が凍傷予防薬として朝鮮に持ち込んだとか、この時、持ち帰ったことから「高麗胡椒」といったとも伝えられています。

江戸幕府の膝元で江戸野菜

 

17世紀半ば頃から全国各地に名産の野菜が誕生し、庶民の食卓を彩るようになりました。

 

たとえば、『毛吹草』(1645年刊行)や『諸国名物往来』(1727年)、『日本諸国名物尽』(1727年刊行)などの文献にも、特産品として産地名を冠した野菜が登場するようになりました。

 

たとえば、武蔵国つまり、江戸では、

 

江戸葵瓜・根深・岩付牛荼・葛西菜・稲利間大根・鳴子瓜、山手西瓜・胡瓜・鍋山蒟蒻・越瓜・茄子・大角豆

 

などがあげられ、すでに根探(玉葱の異称)や稲利間大根(練馬人根)が食されていたことが分かります。

 

江戸幕府が築かれた後、徳川家康は夏には欠かせない水菓子(果物)であった美濃国真桑村(岐阜県本巣市)に産する「貞桑瓜」の栽培を推奨しましたが、なかなか成功しませんでした。

 

そこで、美濃国から百姓を呼び寄せると、うまく栽培できたといわれています。

 

これが「江戸葵瓜」で、主に府中で生産され、将軍の元へは「御用」の札を立てて、うやうやしく運ばれたといいます。

 

また、「小松菜」は八代将軍吉宗が鷹狩りで訪れた小松川村で口にした青菜(葛西菜ともいう)に、地名をとって命名したといわれています。

 

今日、広く食されている小松菜は中国野菜などと交配されたものですが、関東では白菜とともに冬を代表する野菜で、東京風の雑煮には必須の野菜となっています。

 

江戸で産する野菜のの多くは、参勤交代で江戸参府した大名たちが、お国自慢の野菜を食べるために種を持ち込み栽培した中で、江戸の土壌と相性の良かったものが定着したものです。

 

それらが現在まで伝えられて、「江戸伝統野菜」と呼ばれるようになりました。

京都で発達した京野菜

日本人と野菜

 

お寺の町・京都では、動物性食品の摂取を禁じた精進料理の発達とともに、野菜は大いに活用される食材として発展をみました。

 

今日では、地域特産のブランド野菜「京野菜」として確固たる地位を築いています。

 

京野菜も江戸野菜と同様、産地名を冠したものが多いのですが聖護院大根・聖護院蕪を筆頭に、辛味大根・青味大根・桃山大根など大根、あるいは蕪の種類が多いのも特徴的です。

 

古来、大根と蕪は混同されていたようで、根の細長いものは大根、丸いものを蕪と称していたようです。

 

多品種となったのは室町時代中期からの品種改良によるところが大きく、宮の前大根(今日の守口大根)、近江蕪、練馬大根、伊吹大根、倉橋大根、宮重大根、桜島大根、天王寺蕪、聖護院蕪などが有名です。

 

それでは、聖護院大根と聖護院蕪はどう違うのでしょうか。

 

大根のほう文政年間(1818〜1830)、聖護院の東にある黒谷・金戒光明寺に尾張から奉納された大根を、この地で栽培するうちに丸くなってしまったといい伝えられています。

 

煮ると大変、柔らかく、味が染み込みやすい、蕪のような丸い大根です。

 

蕪のほうは享保年聞(1716〜1736年))に聖護院に住まいする篤農家伊勢屋利八が、近江の堅田(現・滋賀県大津市堅田)から近江蕪の種を持ち帰ったことに始まります。

 

聖護院の土壌に合い、直径15〜20センチにもなる大きなものが収穫されるようになったのです。

 

聖護院蕪は、京都を代表する漬け物「千枚漬」になります。

 

辛味大根は桃や茎の部分は小蕪と酷似していますが、水分が極めて少ない大根です。

 

特に、根部に強い辛味を有することから、蕎麦の薬味として用いられています。

 

水分が少ないことから、つゆを薄めず、また、濁らせることなく辛味をつけるものとしては最高のものです。

 

京都市北区鷹ヶ峯の原産で、元禄年間(1688〜1704年)あたりから栽培されていたといわれています。

 

千枚漬に添えられる葉ものとして「みず菜」があります。

 

葉が細く長く、ピリッとした辛味と香り、さらにシャキシャキとした食感が特徴のみず菜は、江戸峙代以前から京郡中心に栽培されてきたものと考えられています。

 

「雍州府志」(元浅野家に仕えた儒医で歴史家の、平川道祐によって著された山城国最初の総合的地誌。1684年成立)には、
 


水菜は束寺・九条のあたりで栽培されている。もとは、肥料を用いないで流水を畦の間に引き入れて作られていたことから 1水入れ菜」と称した。

と記され、洛南に位置する東寺や九条近辺で栽培されていました。

 

みず菜の由来は、今日の水耕栽培に相当する、肥料を用いずに畑の畦のあいだに水を引いて栽培していたことによるようです。

 

1800年代、みず菜が自然交雑してできたものに「壬生菜」がありますがヽ幕末に京郡を守護した新撰組の屯所があったことで知られる壬生寺付近で、多く栽培されていたことから、このように命名されました。

 

みず菜の葉がギザギザであるのに対して、細長くヘラのような形状であることから「丸葉みず菜」とも呼ばれています。

 

今では、みず菜も千生菜もサラダなど、多岐にわたって使用されています。

 

東寺や九条近辺は肥沃な土壌であったため、みず菜のほかに九条葱、東寺真桑瓜(あま瓜)、姫瓜、魁芋、土芋茎、刀豆なども栽培されました。

 

とくに、九条忽は青葱(葱)の代表品種で、江戸の根深葱(白葱)に対峙する存在でした。

 

また、外観上、特異な形状を呈しているものとして、賀茂茄子、鹿ヶ谷南瓜、堀川牛犀、海老芋などが有名です。

賀茂茄子は西賀茂(京都巾北区)で作られた直径10センチにもなる大型丸茄子です。

 

鹿ヶ谷南瓜は瓢箪型の南瓜で、文化年間(1804〜1818年)頃、津軽から持ち帰った南瓜を鹿ヶ谷(京都市左京区)に植えて栽培したのが始まりといわれています。

 


牛蒡と筍

堀川牛蒡は聚楽第の堀のゴミ捨て場に越年牛蒡を作ったのが始まりといわれ、通常のものより太く、直径8〜10センチにもなり中心部に空洞があるのが特徴といえます。

 

海老芋は享保年間(1716〜1736年)頃、東山にある青蓮院の門跡が九州を巡行し、海老のような縞模様の芋を持ち帰り円山の地で植えてみると、海老のような反りと縞模様がある芋が収穫できたのを始まりとする里芋の一種です。

 

京野菜の中でも特異な存在といえる京たけのこは、白肌で柔らかく、えぐみが少なく「白子たけのこ」(孟宗竹の一種で、肌が白いのが特徴)と呼ばれています。

 

古来、乙訓地区(向日市・艮岡京市・大山崎町)が、名産地として知られています。

 

筍が食されるようになったのは、14世紀頃からで、中国から伝えられた中国南部原産の孟宗竹が食用とされました。

 

孟宗竹は中国の政治家孟宗(?〜271年)が、病身の母親に好物の筒を食べさせようと雪中の竹藪に入り探し求めたところ、親孝行の心が天に通じ、突然、笥が一面に生えてきたという故事に由来して命名されたといわれています。

 

これらの京野菜は、江戸中期に活躍した絵師で、もとは錦小路高倉にあった「桝源」という青物問屋の主人であった伊藤若冲(1716〜1800年)によって耕かれた、「果疏涅槃図」(釈迦涅槃図をもじったもので、二股大根で釈迦を表しています)にも描かれています。


 

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