醤油のこと

関東の味、濃口醤油

 

現在、醤油は濃口醤油・薄目醤油・溜醤油・白醤油・再仕込み醤油の五種に分類されています。

 

「醤油」の文字が登場するのは室町時代になってからで、それ以前は古代以来「醤」(ひしお)と呼んでいました。

 

江戸初期には上方を中心として生産された溜醤油が主流で、醤油発祥の地ともいわれる紀州湯浅(現・和歌山県有田郡湯浅町)・播州龍野(兵庫県たつ野市)・備前児島(岡山県児島)・讃州小豆島(現・香川県小豆島)・摂州灘(兵庫県神戸市灘)・近江日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)など西日本一帯で産出されていました。

 

一方、江戸では醤油の存在は知られてはいましたが、生産にはいたらず、消費量の7〜8割は上方から運ばれた「下り醤油」だったのです。

 

江戸近郊でも醤油造りがなされていましたが、「地回り醤油」などと呼ばれ、上方のものと比べると品質が劣っていたといわれています。

 

ちなみに、一般に醤油が使用されるようになるのは、江戸中期以降のことであると考えられています。

 

さて、今日、全醤油生産量の8割を占めているのは濃口醤油です。
つけ醤油、かけ醤油として卓上調味科とされるほか、煮物・焼き物・出汁・タレなど多岐にわたる調理用醤油としても用いられています。

 

濃口醤油の誕生は、17世紀後期から18世紀中期にかけて江戸の人口が増加したことにより、醤油の需要が増人し、溜醤油の生産が追いつかなくなったことによります。
そこで、銚子や野田において、大豆と小麦を材料とした江戸っ子好みのとろみのある濃い味の醤油、つまり濃口醤油が開発されたのです。

 

この両地の近隣には関束平野平が広がり、醤油造りで必要な大豆は常陸(硯・茨城県)から、小麦は下総(現・千葉県北部および茨城県の一部)や武蔵(現・束京都と埼玉県)から、塩は行徳(千葉県市川市)から良質のものが手に入り、それらを江戸川や利根川の水運を川いて運搬できるという利便性がありました。

 

さらに、生産品を一大消費地である江戸に運搬するのにも、この水運が大いに役立ったのでした。

 

19世紀半には銚子では、優れた品質の醤油生産が可能になり、江戸幕府から「最上醤油」の称号が贈られるほどになりました。

 

濃口醤油の原型である溜醤油は、ほとんど大豆だけで製され、大豆を蒸して作った味噌玉に麹菌を植え付け、塩水に仕込んで年間熟成したものです。

 

濃厚な味は、刺身のつけ醤油や照り焼きには欠かせぬ存在となっているほか、煎餅やあられなどのつけ焼きにも活用されています。

 

溜醤油ほど濃厚ではなく、二度、醸造するような工程をとる「再仕込み醤油」が、天明元年(1781年)柳井津(山口県柳井市)の高田伝兵衛によって開発され、今日でも卓上調味料として使用されています。

 

白醤油は小麦粉と大豆の比率を9対1あるいは8対2にしたもので糖分が多く、琥珀色の透明なもので、素材の色を引き立てるのには最適な醤油といえます。

 

江戸時代後期、三河国新川(現・愛知県碧南市)、あるいは尾張国山崎村(現・愛知県稲沢市)で誕生したと伝えられています。)

素材の色を美しくみせる関西の薄口醤油

 

京料理の味は薄口醤油によって作り出されているといっても過言ではありませんが、その生産は播州龍野で開始されました。

 

龍野は播州平野の西部に位置し、そこで産出する三日月大豆と、赤穂の塩によって醤油醸造が展開されました。

 

にがりを含んだ赤穂の塩は、江戸初期ごろから高い評価を得ていたことから、播州ばかりでなく、野田の醤油醸造にも活用されるようになりました。

 

高品質の塩を生み出す赤穂の製塩法が、吉良上野介と浅野内匠頭との軋轢を生み、刃傷沙汰へと発展したともいわれています。

 

赤穂の地は薄口醤油の誕生以前から醤油造りが盛んで、天正15年(1587年)円尾家が、天正18年(1590年)に横山家が醤油醸造業を始めたと伝えられています。

 

寛文6年(16666年)、円尾係右衛円長徳は、醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜることによって淡い色の醤油、つまり「薄口醤油」を考案しました。

 

寛文12年(1672年)には、龍野城主の脇坂安政が「領内物産第一之品」として保護・育成に努め、18世紀には京坂に出荷されるほどの特産物となりました。

 

醤油は発酢・熟成が進むに従って濃い色を呈し、風味が豊かになります。

 

淡い色に仕上げる「薄口醤油」は高濃度の食塩で発酵・熟成を抑え、醸造期間を短縮させることから濃口醤油よりも約2%ほど塩分が高くなります。

 

また、醸造過程で甘酒や水飴を加えることによって、控え目な旨味に仕上げられています。

 

このように、濃口醤油と比して色も香りも淡白なため、つけ醤油やかけ醤油には適しませんか、煮物や吸物、うどんつゆには最適です。

 

素材の色合いを損なわず、美しい色合いで仕上げることができます。

 

醤油は魔法の調味料

 

醤油は魔法の液体なのです。

 

どんな料理でも、一滴の醤油をたらすだけで、味がぐんとよくなります。
和洋中華を問いません。昧にふくらみが出て、料理がうまくなるのです。

 

世界的に、醤油ファンが増えていますが、おいしい味に国境はありません。
うまいものは、誰の口にも心地よいのです。

 

醤油の特技として、魚の生臭みを消すという、ウルトラCがあります。
刺し身、握り鮨などは、日本を代表する料理ですが、醤油がなかったら、これほど普及することはなかったっでしょう。
醤油は、主役の持ち昧を、フルに引き出してくれる、すばらしいわき役なのです。

 

醤油のうまみ成分は、グルタミン酸などのアミノ酸なのですが、これが生魚の臭みを消す上でたいへんに役立つのです。

 

「日本料理」は、魚が主役であり、醤油という名脇役がいなかったらその魅力は半減したのではないでしょうか。

 

江戸前料理と濃口醤油

 

醤油が普及するのは、江戸時代になってからです。

 

巨大都市江戸で消費される醤油の70〜80%は、江戸中期の享保(1716-36)の頃までは上方からの下り醤油によって占められていました。

 

「醤油」の成語が初めて見出されるのは、慶長2年の、『易林本節用集』で、これによって、すでに戦国時代には上方で醤油が作られていたことがわかります。

 

醤油を最初に商品化したのは、紀州の湯浅ですが、江戸初期に紀州の漁師によって、銚子付近に伝えられ、利根川流域で発達したのです。

 

銚子や野田の醤油は、元禄の頃には江戸に進出しており、地元の足回りのよさを生かして、上方醤油に対抗しました。

 

江戸が巨大な消費都市として発展するにつれて、東北や甲信越からの移人者が増え、江戸の味覚も、それまでの上方風薄口から、関東の濃口に変化していきました。

 

新しく形成された江戸の味覚が、関東の濃口醤油を求めたのです。

 

文政四年(1821)に江戸に入ってきた醤油は、約120万樽であるが、上方物はわずかに2万樽にすぎません。

 

文化・文政というと、「江戸の食い倒れ」といわれるほどの料理ブームがおこった時代で、江戸前料理の華といわれる握り鮨や天ぷら、うなぎの蒲焼き、肉鍋、どんぶり物などは、実にこの時期に生れたものです。


 

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